聖書の主
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私は大通りで車から降りて、ひとり路地に入っていく。奥に一本入っただけで、何と静かになることだろう。初めて訪れる国の見慣れない路地裏は、その静寂さがかえって不気味だ。特に日本の路地というのは、ヨーロッパの古い石畳の路地と違って何もかもが不自然に新しく、無機質だから、温かみというものがまるでない。
必要に迫られて訪れた国だが、また必要とならない限り、好んで再訪することもないだろうと私は思う。そしてできれば、必要に迫られるような事態にならないように願った。今回の任務が、滞りなく行われるように。心の中で祈りを捧げた。
今回の任に、自分が抜擢されたことについて、私は抑えようもない興奮を覚えていた。忌まわしき手段によって、この国へ運ばれたグーテンベルク『四十二行聖書』。私は過去の逸話を聞くたびに、歯がゆい思いを抱いたものだった。聖書はこのような無機質な国にあるべきではない。いつか、いつか必ずそれにふさわしい国に迎えられるべきだと、それが私の考えだった。
まさかその招致に、自分が向かうことになろうとは考えもしなかったけれど。
私は無機質な路地を最初左に曲がり、次に右へ曲がった。無機質な路地は、一軒の店の出現によって唐突に終わる。店の名前は外に出ている低い看板に表示されていたが、私にはそれを読むことができなかった。アルファベットで並列表記をしていない店など、この世界にまだ残っていたのか、と呆れるよりも驚きの方が強い。
私は名前も分からない店に入る。店の明かりが漏れているということは、営業はしているのだろう。実際、私は派遣元からこの店が夜にしか営業しないことを聞いている。私にとっては好都合。派遣先にとっても勿論そうだっただろう。
「Welcome」
入ってすぐに私を迎えた声は若く、そして聞こえてきた言語は滑らかな英語だった。私はこの異国で母国語に会えた安心感に、思わず立ち止まる。店内は二階部分まで吹き抜けになっていて、すぐ右手には小さな螺旋階段があった。左手のカウンター奥には、ティーカップが飾り棚に並べられている。喫茶店を併設しているというのは正しい情報だったようだ。
そしてそのカウンターに、ひとりの店員が立っていた。肌の色は白人種のようにしか見えない。薄い髪の色も私がイメージしている、そして空港などで実際に見かけた日本人とは異なっていた。ただ、着ている服は普通のシャツやパンツではなかった。生地だけ見ればけばけばしいとしか思えないような布を、巻きつけるようにして着ている。着物というのだったか。しかし人の体に巻きつけるだけで、けばけばしさは華やかさに変わるものなのだろうか。美しい、という言葉が浮かんだ自分の心に、私は戸惑った。
「ここは修理屋を営んでいると聞いてきたのだが」
私は一瞬、自分の役目を忘れかけたことを恥じて咳払いをした。
「えぇ。修理のお客様ですか? こちらへどうぞ」
店員は営業用の笑顔を崩すことなく、私を右手の低いカウンターへ案内した。それまで半信半疑だったが、どうやら情報通り、この性別不詳の人物こそこの店の店主であるらしい。他に店員はいないという話も確かだった。私は促されるままカウンター前の椅子に腰掛けて、僧服の乱れを直した。
「これを」
それから私は、薄い鞄から中性紙に包んだ一枚の紙を取り出した。紙切れを、と言ってしまえないことが、この紙の価値を表している。それは私だけの評価ではなく、世界中に認められたものだった。それを証明するかのように、若い店主はその紙を明かりに透かし、感嘆の溜息をついた。
「グーテンベルク聖書ですね。それも、震災で焼失したと言われている慶応本の一葉ですか」
一目でそこまで分かってしまうものなのか、と私は身を硬くした。もちろん、価値が分かってもらえなければ扱いにも間違いが出てくるかもしれないのだから、修復を任せるには正当な価値が分かっている者でなくてはならないわけだが。グーテンベルク聖書であることが分かっても、慶応本とまで言い当てられるとは思わなかった。しかしそれは完全に私の考えが甘かったようだ。明かりに透かしたのは、おそらく雄牛の頭のウォーター・マークを確認するためだったのだ。
「これは聖ヒエロニムスの書簡の冒頭ページですね。緑と金で飾られた“F”の装飾文字。大きく下に伸びた植物模様。金の輝きはやはり現物の方が美しい。赤も、オンラインで見るよりずっと明るいようです。それに……この紙とインクの匂い。結局人は、まだ嗅覚の情報をオンラインで運ぶ方法をまだ見つけていませんから、この香りは本物以外には出せないものですね」
そうだ。慶応本ほど人の目に露出したグーテンベルグ聖書はない。香りは運ぶことができなくとも、その印刷の具合から文字装飾、空気にさらされた紙の色まで、前頁に渡ってオンラインで公開された慶応本は、ガラスケースに入れられた本物を目にするのと同程度の感動を、数多くの人々に味合わせたのだ。もっともそれは私や、私の派遣元にとっては、苦々しいだけの悪魔のような所業であった。神が与えたもうた貴重な財産を、わざわざ無知な人々の目に晒すなんて。まさかそれが慈善事業だとでも思っていたのだろうか。
「……君なら直せるだろう? その一葉さえあれば、正しい姿に戻せるはずだ。そう聞いてきたからこそ、危ない橋を渡って日本までやってきたのだ」
そうして正しい姿に戻した聖書を、私達は永久に私達だけの財産とする。聖書を読み込み、聖書のことを誰よりも熟知し、正しく解釈できる者達にこそ、この四十二行聖書はふさわしい。それが私達の考えだった。
「そう、私なら直せますよ。幸い、インデックスのボタンもきちんと残っているようですから」
まだ聖書に魅入られた、宙を浮いたような声で店主は答えた。
「金ならいくらでも払う。なるべく早く……」
金には換えられない価値が、この聖書にはある。資金は十分に用意されているのだ。私はぼんやりとしている店主に、早急な対応を約束させるつもりで身を乗り出した。すると、店主は目が覚めたように私の顔を見据え、カウンターの奥へ一歩ひいた。
「ただし、この一葉以外がすべて失われていたとして、の話です」
「な、に?」
私はまず自分の耳を疑い、そして次に、店主が英単語の意味をよく理解せずに繋げて言った結果だと思った。しかしここにきて唐突に英語をうまく話せなくなるとは思えない。店主は混乱する私を嘲笑うかのように、滑らかな英語で話を続けた。
「この世にこの一葉しか存在しないというのであれば、私はこの一葉から本来のあるべき姿としての四十二行聖書を修復できる。慶応本と呼ばれたグーテンベルク聖書を。でも、この一葉の他すべてが世界のどこかに不完全本として存在しているというのであれば、それにこの一葉を加えることはできても、この一葉に他すべてを修復して完本とすることはできません。それは私の仕事ではない」
私は自分の喉がなる音を聞いた。
「だ、だから、この一葉の他は震災ですべて……」
「失われた、と?」
「そ、そうだ」
そうでなければ、わざわざこんなところへ来て、聖書を修理しろなどとは言わなかっただろう。“あの作戦”が失敗に終わり、私達の手には聖ヒエロニムスの一葉しか残らなかった。それだけであれば、もう一度別の作戦を立てていただろう。けれど、それを立てる前に聖書は日本列島を襲った震災で焼失したという情報が流れたのだ。私達は落胆し、そして半信半疑ながらも最後の手段としてこの店へやってきたのだ。
「そうでしょうとも。慶応本は震災で失われた……ことになっているのです。現物がここにあったとしても」
「そ、それは……!」
おもむろに店主がカウンターの下から出した一冊の書物。褐色の子牛革装のそれは、確かにかつて『ドビニー聖書』と呼ばれていた慶応本に間違いなかった。インデックスに使われた、聖ヒエロニムスの書簡ページ以外の三つのボタンも、小口部分に確かに残っている。
全身が震えた。まさかこんなところで、求めていた四十二行聖書に出会えるなんて。そして、今日までずっと日本に上手く騙されていたなんて。
「震災の前に、慶応本聖書はヨーロッパに持ち出されようとしていたのです。聖書は、日本が回収しに走ったとき四つに分かれて持ち出されていました。幸い四箇所とも海を渡る前に回収されましたが、その中で北海道からロシアを経由して運ばれるはずだった聖書の一葉だけが抜け落ちてしまったのです」
店主は一枚が分厚く見えるページをめくり、最初の頃のページでその手を止めた。そこは本来聖ヒエロニムスの書簡が始まるべきページで、しかし該当のページは抜け落ちていた。
「そこで日本は考えました。不完全本となってしまった聖書でも、国内に残せただけ良かった、と。けれど無事に回収したことを公表してしまえば、また何かの機会に聖書は奪われるでしょう。だから――」
私は店主の言葉を引き継いで言った。
「すべて震災で失われたことになった」
自分でも、冷たい声だと思った。
「えぇ。ディジタル・データが完全に残されている慶応本聖書は、震災で現物が失われたとしても一般に公開することだけはできる。オンライン・ファクシミリとしてインターネットにも早くから載せられていた慶応本は、その意味では“見ることもできない貴重な資料”ではなくなっていましたから、震災というどうしようもない天災で失われたとしてしまえば、その前に起きた盗難事件を有耶無耶にするのにも都合が良かったわけです」
そしてそんなご都合に、我々はまんまと引っかかってしまったということだ。帰ったら早速情報部隊の怠慢を大声で追及してやらねばならないだろう。
「けれども不完全本でなくなれば、事情を半分だけ明かし、盗難から救われた本としての話題性を得られる。だから私のところに持ち込まれたのです。依頼は貴方の場合と同じ。慶応本グーテンベルク聖書を修復して欲しい、と」
店主は重い聖書をカウンターの上におき、開いていたページを閉じた。私の目は、その慶応本聖書から離れなくなってしまう。いまカウンターへ向かって行って、店主を突き飛ばせば聖書は簡単に私の手に入る。しかし用心深いことに、店主は私が持ってきた聖ヒエロニムスの書簡だけは、手に持ったままだった。
「……断ったのだろう。私の聖書が修復できないのであれば、同じ理由でその聖書も修復はできないはずだ」
「えぇ、いったんお断りしました。しばらく待って欲しい、と」
店主はそう言って、満足そうに微笑みながら私を見た。
「こうして残りの一葉が見つかったなら、それを修復するのは簡単なことです」
店主は手にしている聖ヒエロニムスの冒頭ページを軽く掲げて見せた。まさか――。
「まさか、今日私がここに来るのを待っていたというのか?」
入国さえも悟られないように、万全を期して日本にやってきたというのに、この店主は私が来ることを知っていたのか。まさか、この店主に依頼をしたという慶応本の所有者も、分かっていて我々を入国させたのか。しかし店主は首を振ってそれを否定する。
「貴方か来店するのを待っていたわけではありませんよ。私はこの一葉がここに来るのを待っていたのです。この、四十行の聖ヒエロニムスの書簡ページを」
否定になっていない、と私は思った。けれどすぐに考え直す。そんなことはどうでもいい。重要なのは、あの聖書が目の前に揃っているということ。私達が迎えるべき、美しき慶応本聖書が一枚の抜けもなく。私は僧服の内側に手をいれ、立ち上がると店主に向けて銃を構えた。
「ではその聖書ごと、この場で直して私に渡してもらおう」
私が銃をかざして脅しても、店主の顔色は変わらなかった。
「それはできかねます。この聖書の持ち主は貴方ではありませんから」
確かに、私は聖書の持ち主にはなれなかった。これからも、正当な持ち主になることはないだろう。だが私はそれで構わない。私はグーテンベルク聖書を独り占めしたいわけではないのだから。私はただ、その貴重な聖書を仲間達と共有し、その世界で初めての活版印刷聖書が語る言葉に、耳を傾けたいだけなのだ。真剣に。
「そもそもこの聖書を、キリスト教国家でもない日本が手に入れたことが間違いだったのだ。信仰もないのに聖書を持ったところで本当の価値は分かるまい。価値あるものというのは、価値の分かる者の手にあってこそのものだ」
店主は聖ヒエロニムスの書簡を掲げたまま、面白そうに私を見つめて言った。
「オークションという形で出されたものを、お金で買い取るのは当然の権利だと思いますけれどね?」
それが最も気に食わない。あのオークションが行われた当時、たまたま暴落した株のあおりを食らってオークションに参加を見合わせた者が多数いた。まさかあの状況を狙ったかのように、日本がドビニー聖書を競り落としてしまうなんて、誰が思っただろう。ただ、資産がある。それだけでオークションに競り勝つには十分だ。だが、聖書の主となるには相応しくない。
「聖書を渡せ。そうすれば命だけは助けてやる」
そう言うと観念したのか、店主は静かに目を閉じた。
「……助けてやる、なんてまるで神にでもなった気分なのかしら?」
「何?」
突然、店主の言葉にオーストラリアの訛りが入った。それまではイギリス英語で話していたはずなのに。それに、声も幾分高く、女性に近くなったと思ったのは気のせいだろうか。私の戸惑いに連動して、少しだけ銃口が下がった。店主は目を開けると私に向かって微笑み、そしてカウンターへ近づくと、広げていた聖書に聖ヒエロニムスの書簡を挟んだ。
私の銃は確かに店主をとらえたままだったが、そこまで聖書に接近していては打つ気にはなれない。私が迷っている間に店主は聖書を持ち上げた。そして持ち上げた聖書を、あろうことか無造作に宙に放ったのだ。
「受け取りなさい」
私は思わず銃を放り出し、宙に浮いた聖書を受け止めようと一歩前へ踏み出した。そして次の瞬間に立ち竦む。胸に鋭い痛みが走ったが、私の手は確かに欲していた聖書を受け止めていた。だが達成感は一秒もない。私は聖書を抱えたまま、自分の胸に刺さっているナイフを見つめ、そしてそのナイフを認識するかどうかというところで意識を失ったのだ。最後に私が思ったのは、腕に重く存在を主張する聖書のことだった。私が倒れても、外にいる仲間が店主を殺して聖書を国へ持ち帰ることだろう。私は十分に、私の役目を果たしたのだ。
しかし、一冊の本がこんなに重いものだなんて――。私は死の間際にそれを知ったのだった。